比良へのいざない
豊かな文学の舞台
万葉集
『万葉集』には、近江を舞台に詠んだ作品が多く収められていますが、「比良」が詠まれた作品を次に紹介しましょう。
巻三には、高市黒人(たけちのくろひと)の羈旅(たび)の歌が八首収められています。そのなかで
「磯の崎漕ぎたみ行けば近江の海八十の湊に鶴さはに鳴く」
はよく知られた作品ですが、この歌の次に置かれているのが、
『 我が舟は比良の湊に漕ぎ泊てむ沖辺(おきへ)な離(さか)りさ夜ふけにけり 』
という歌です。 だいたいの意味は、〈私が乗ったこの舟は今夜比良の港に停泊する、沖のほうに漕ぎだして行かないでほしい、もう夜も更けてしまった。〉くらいでしょう。日没後、湖上を航行する作者の不安感がよく表現されています。「比良の湊」の位置は特定できませんが、比良山麓の湖岸線に間違いないはずです。
また、巻九には、
『 楽浪(ささなみ)の比良山風の海吹けば釣する海人(あま)の袖反る見ゆ 』
という歌があります。 作者は槐本(つきのもと)とだけしか記されていませんが、歌意は〈比良からの山風が湖上に吹きわたると、釣りをしている漁師の袖がひるがえるのが見える。〉というくらいです。
―作品の引用は、小学館・日本古典文学全集『萬葉集』から―
井上靖『比良のシャクナゲ』
井上靖(1907〜1991)の作品に『比良のシャクナゲ』という短編小説があります。
この作品は作者の初期のもので、登山ブームの引き金になった『氷壁』より以前に書かれていますが、登山のシーンはまったく出てきません。
発表は1950(昭和25)年。ベストセラーになった『氷壁』より6年前の発表です。
琵琶湖や比良山系の描写があり、主人公が以前に見かけた「比良のシャクナゲ」の写真が作品のモチーフになっています。
作者は後年、湖北の十一面観音像をこよなく愛し、ことに渡岸寺(高月町)には何度も足を運んでいます。『星と祭』は十一面観音をモチーフにした長編小説です。
ほかにも『額田女王』など、井上靖は近江・滋賀を舞台にした小説やエッセイを多く書いていますが、その作者の最初期の作品に「比良のシャクナゲ」があるのは、作者との深いゆかりのようなものを感じます。
司馬遼太郎『街道をゆく』
「湖西のみち」は、大津から湖岸沿いに比良山麓を通過して安曇川へ、安曇川から朽木まで北上して、朽木渓谷を南下するルートをたどります。ちょうど比良山系をぐるっと一巡する格好です。そして、渡来人文化、信長の朽木谷への脱出、足利義晴の朽木流寓など筆者の思いは時空を駆けめぐります。
司馬遼太郎が『街道をゆく』の連載をはじめたのは、『週刊朝日』1971(昭和46)年1月8日号です。
筆者の逝去によってこの連載は終止符を打ちますが、25年あまりの間に、日本国内はもちろん韓国・モンゴル・オランダなどにまで足跡をのこし、全43巻72街道におよぶ長大な歴史紀行です。
まさに筆者のライフワークで、ここには「司馬史観」と呼ばれる歴史観や文化論が根づいています。


