季節の山エッセイ

ナンバー

夕光のなかに

私は下山する気持ちがあったのだろうか。
自分でもそんな疑問を抱くほど、その斜面で私はあまりにゆっくりしていた。
それほど長い時間くつろいでいた訳ではなく、時間にして知れていたはずだ。私の体は解き放たれていた。
もう夕光ともいえる、明るく淡い光のなかに私の精神は解き放たれていた。ほどよい風が頬に快かった。
頂上は大きな噴火口跡だった。ぽっかりと開けた巨大な口は、もう何千年も静けさを呑み込んだままなのかもしれない。斜に陽があたっていた。底まで下りると、上ってくるのに骨が折れそうだった。
私は周囲をしばらく歩いて引き返した。 一周するにはたっぷり半時間はかかるだろう。三角点のある、二つ三つ頂上を示す標の立つ頂で、私はコーヒーを沸かして休んだ。
晴れていたが、遠くの方はかすんでいた。海と空との区別がつかなかった。陽がふりそそぎ、風があった。すぐ下山する気にはなれなかった。 時間は遅かった。下山の時刻は過ぎていた。しかし、登山口に着いたのが午頃、それから登り始め、やっと辿り着いた山頂だった。すぐに下山する気にはとうていなれなかった。

私は地図を取り出した。周りの景色を一通り眺めわたした後、私は地図の中に見付けた山小屋に立ち寄ることにした。 頂上直下の避難小屋だった。誰もいそうになかった。頂上を後に、私はその小屋に向かった。
遠くから、白い建物が目を引いた。頂上下のちょっとした平坦地に、その建物は立っていた。
小屋の前には、一本のこれも白く塗られた柱が立ち、鈴が懸かっていた。私は小屋の前に出た。 思ったより大きく立派な造りだったが、やや古びた白いペンキ塗りで、どことなく寂しい佇まいだった。
私には、それが印象に残った。 扉を押して、内に入った。ラジオの音が聴こえてきた。この山に来て、初めて接する人間の匂いだった。 私は急に人懐かしい思いにとらわれていた。私は内に入っていった。小屋番がいた。彼は、もう一週間もすれば小屋を閉じると話した。 見ると、その日の宿泊客が二人いた。くつろいだ様子だった。
私は去りがたい思いを抱きながら、小屋を出た。 外光が明るく降りそそいでいた。扉を閉めると、ラジオの音は消えた。何度も振り返りながら、私はもと来た道を引き返していった。
草地の斜面だった。 私はまた腰を下ろした。ここもよく眺望が利いた。
前方には、この山よりは低く、優美な山容が横たわっていた。 美しい響きのアイヌの言葉を名前に持つその山も、もうしばらくすれば真っ紅な夕焼けの空のなかに沈むことだろう。
私はその様を想い浮かべてみた。私は下山が夜になることを、もう気にかけていなかった。
明るい夕光が空に充ちていた。傍らの草が風に揺れていた。
私は遠い記憶のなかにいるようだった。

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