季節の山エッセイ

ナンバー

春色の谷

林道ではあちらこちらで、キブシの黄緑色の花穂がたれていた。
色どりのとぼしいこの季節にあって、その淡い色あいは、急いで山野を駆けていった春の女神が吹きかけた息吹のように思われる。
途中の南向きの斜面で、一株だけ気の早いヤマブキが花をつけていたのが、目に鮮やかに残っている。
その根元には、あたたかな陽光をいっぱいに受けて、可憐な幾株ものスミレが花をつけていた。
このように気をつけてみると、いくつかの色調を見つけることができるが、それはまだまだ淡いもので、私がたどる溪谷には深い冷気がただよっていた。 その静寂を秘めた空間には、ようやく朝の陽射しがさしこもうとしていた。
対岸の絶壁に、ほんの一箇所だけ鮮やかな花影がみとめられた。桜にしては、そのピンクの色あいが濃すぎるだけに、もうツツジが花をつけているのだろうか・・・・・・ 春のおとずれの遅い山々とはいえ、山麓では徐々にそのトーンが上がっていく。
林道をそれて、登山口からしばらく歩くと廃村に出る。その村のはずれ、ときどき店を開けている山小屋の前で少し休んだ。 沢から引いた竹の筧から、水をすくって口にふくむと、冷たい液体が身体のなかに流れこんでいくのが快い。

廃村を出て、十分ほど雑木の斜面を登ると峠に出る。 ひんやりとした風にあたって頭上を見あげると、葉を付けていない木々の梢から薄陽がもれて、あたりは明るい。
夏の盛りには、うっそうとした枝葉が暑い陽射しをさえぎり、ここはいつも涼しい風が吹きぬけていく。 峠からは尾根道がつづき、五、六羽の小柄な小鳥がチチチ、チチチチチとさえずりながら、私の前を枝から枝へと飛びうつっていった。 マンサクの花がところどころに色をつけている。
明るい雑木の尾根道がしばらく続き、歩を進める私の心ははずんだ。 雑木の斜面を抜けて、眺望の利く見晴らし台に出た。うっすらと雲がかかっているが、いつの間にか太陽が顔を出し青空がひろがっていた。 石灰岩の露出した横に腰を下ろし、ゆっくりと休憩をとった。ウグイスの声がやかましいほどに私の耳に聞こえてきた。 ほかにも小鳥の声がするが、ウグイスのそれに圧倒されている。ザックの中から水筒を取り出し喉をうるおした。それから昼食用のパンを半分だけちぎって頬ばった。
汗がひいてから私は立ちあがり、また歩きだしたが、ここからは一歩一歩登るごとに展望がひろがってくる。 その灌木や草木の急斜面を登りきると、眼前にはあたり一面にササ原のゆるやかなスロープがひらけてくる。
ササの草原を快い風が吹きすぎていった。葉っぱが光を跳ねかえし、風が過ぎていくのが見える。 ところどころに露出した石灰岩の白い色がその中に残されている。私は悠かな時間の流れのなかに身をひたして、そのスロープの中の登山道を一人たどっていった。
それからしばらくののち、私は最初のピークに立っていた。頬に冷たい風が吹きつけた。 ここまで残雪は見られなかったが、頂上付近の谷筋にいくらか残っていた。
避難小屋のほうをながめると、二、三人の登山者の姿がみとめられ、これからこちらに向かって歩いてくる様子だった。
その向こう、大きくなだらかな山塊がその頂だけ雲のなかに姿をあらわして、白い山肌は明るい陽光に照らされていた。

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